自分がこうしようということと、相手にこうしてもらいたいということは全く違うこと

今年はいつまでもだらだらと寒い。

意地でももうダウンコートは着ないと心に決めていたら、うっすら風邪をひいた。

一緒に山へ行っていた 山で知り合った山ガール 2人(どちらも別グループ)

2人とも 彼氏ができたと嬉しそうに報告があった。

まぁ2人とも微妙なお年頃なので 心からよかったねぇとは思うものの(ほんまよ)

えっ、山 これからどうしよ。と思ったわけです。

もちろん山行くよーとは彼女たちは言うものの。

また 気の合いそうな山ガールを見つけなくっちゃ。

昨年の今頃はハローワークに通いつめ 落とされまくり完全におかしくなっていた。

余裕もなかった。

そう思うと 今年は、雇用形態には不安はあるものの

人間関係にも恵まれ山へ行ったりと気持ちも穏やかに過ごしているけれど

やっぱり孤独と不安と戦う日々。

久しぶりに小説を読む。

活字が目に頭に全く入ってきませんでしたから 薄っぺらいものをリハビリがてら。

その中から 

自分がこうしようということと

相手にこうしてもらいたいということは全く違うこと という一文があった。

どうもこれがひっかかってしかたない。

単純な言葉であるけれど、

実際の使い方は決して単純ではなく

”自分”は 自分を傷つけないように計算しつくし

行動する。何かを言う。相手にする。

でも賢い相手は それを察知し 行動に移さない。

その3頁後に、人は

自分がこうしたい、と、相手にこうしてほしい を混同させながら生きていく

とあって 

あぁ 別にいいんだと思いながらも ひっかかっている。

自然と自己防衛で

いや、本能的に私は 自分がこうしようということを相手からしてほしいようにすり替えて相手に言っていることが多い。

どんなところで?どんなことばで?なんていわれると分からないのだけど 

そんなところを、そんな私のずるさを

今の会社の人たちや 最近知り合う人たちは 

敏感にかぎわけているような気がする。

最近ちょっと こわいなぁ。と思っていたことが 小説の一文でひっかかるとは・・・。