電報
昔からというか 電報を身近に感じたのは社会人になってからだけど、
電報って嫌いだ。当時は カタカナしかなく・・・というのは冗談ですが。
でも漢字が入れられるようになったのは94年からです・・・。(ひらがな世代です)
電話でのやり取りしかなく 115番にかけたら 名前を言ってかけ直してもらう。
本人確認とかお金の請求とかでそういうことをするのだろうけど 同じ人からかかってくる。でもその電話を他のヒトがたまたま出てしまったら非常にめんどくさい。(私が電報を打っている最中だなんてみんなが意識しているわけじゃないし)最初のこのやり取りからして その時代なかった言葉で言うと ”うざい”
生産性のある会話ではなく、何というかただの確認作業の繰り返しを目の前にいるヒトではなく電話に向かってしているところが嫌いなのだ。間違ったらとんでもないことなのに。不安でたまらなく、たまらなく煩わしい。
漢字の確認やりとりをいちいちするのがもーなんとも いらちの私には面倒くさい。
田舎の地名であったり お寺の名前が分からなかったり。
イライラがピークの時は 自分からもう適当に言う。 車だん吉の ”車” とか。
有名なDr.であったりするとものすごい量の電報があるのだろうと思う。
どう読むか困っていたら、電報のお姉さんも
『その方への電報は、たくさん承っておりますので住所は分かります』
風なことを言われた事がある。
そのうちFAXになり、今はネットで電報。(先日今の会社でも登録した)
あの電話とのやり取りが嫌いな私にとってはものすごく楽だ。自分でレイアウトが確認できるのもありがたいし、台紙をいろいろ見ることができるのも値段が明確なのもいい具合だ。相手があって(電話で)へんな見栄をはらなくてもいい。
お悔やみ電報か 結婚式のお祝い電報か。
なんだかどちらもごった返している時に こんなもの こんなかたちだけのもの誰が見るものか。と思いながら 古くさいっーと電報を打つ(打ってないけど)
昔は緊急を要する時に不可欠だったもの。電話が通っていないところや、手紙じゃ遅い場合や・・・。現代は・・・多分これは日本人としての礼儀なんだろう。